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2017年8月12日 (土)

“特別”を捨てて“普通”を選ぶことが、そんなに大事なことか? モーガン・マシューズ監督「僕と世界の方程式」(2014)。

実在する数学者を基にしたドラマです。実話であるかどうかは問題ではありません。数学だけが“美しい”と思えるネイサン(エイサ・バターフィールド)は、数学を偏愛し社会となじまない自分を助け、応援してくれていた父親を交通事故で失います。それでも数学オリンピックに出ようと努力する、という物語。
ネイサンが自閉症のように描かれていますし、自閉症の人たちが数学などの分野で圧倒的な能力を発揮するということも知っています。しかしすでに「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画を見てしまった僕には、特別な能力を伸ばす方向よりも、普通の人間であってほしいと望む母親(サリー・ホーキンズ)の気持ちにはついていけませんでした。←実際の話ではありませんよ。映画の中で、という話です。
つまり、ネイサンは自分を認めてくれている父親がいるから、社会に対して自信を持っていたわけです。父親という後ろ盾を亡くしてしまったら、他者に対してシャイに閉じこもってしまう。ネイサンは、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」で少年が母親に口走ったように、“パパじゃなくてママが死ねばよかったんだ”とは言いませんが、心の中ではそう思っている。というか、自分の特別さを疎んでいる母親にはなじめない。
このあたりで僕は、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の母親をサリー・ホーキンズが演じ、この「僕と世界の方程式」の母親をサンドラ・ブロックが演じていたら、どちらもレッテルをべたべた貼っただけの駄作になっただろうなと思ってしまいました。週刊誌の記事程度の掘り下げ方だと、この話はつまらなくなるという意味です。サリー・ホーキンズが、今までいろいろ素晴らしい役柄を見せてくれているだけにそう思う。
ネイサンは素数を好みます。だから母親は、中華料理のランチセットに対して、フライの数を素数にするように頼む。店員は腑に落ちない。それを説得して、ようやく手に入れた息子好みのランチなのに、ネイサンは“おかずが混じっている”と不満を漏らし、“きちんとしてよ”と母親を責める。
てなわけで、ネイサンが普通の高校生のように、中国代表の女生徒とコンビを組み、コンビ以上に親しくなっていくことを、この映画は描きます。まるで“愛するということに目覚めた。これは好ましい”という方向で。しかし同時にこれは、数学オリンピックからの脱落を意味します。
僕が不満なのは、この映画がネイサンの心情を観客に納得させるまで行かず、しかし数学より愛を選んだと結論づけてしまう部分にあります。ネイサンを個人指導する数学教師(レイフ・スポール)は、仲間からは“数学オリンピックから逃げた”と思われている。その“逃げ”とネイサンの“脱出”が同質なのか違うのか、そこまでこの映画は言及していないから、不満なのです。
要するにこの映画のラストが“めでたしめでたし”とならないわけで、それでいて“社会というものは厳しい”という実態を感じさせるわけでもない。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」がすでにあるだけに、自閉症と人間としての自立生活という命題を安易に扱ったとしか思えません。そんな適当な描き方なら僕は、「ザ・コンサルタント」の方を楽しみます。
一説によるとこの映画は中国資本で作られたらしい。万里の長城をテーマにした大作に出資した中国資本が、当てが外れたと騒いだことがありましたが、この映画に出資した連中が映画の内容を改変していないことを望みます。←この映画がダメなのを中国資本のせいにする、という楽な方法を取りたくないから。監督たち直接の制作陣の問題であると考えたいわけです。

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